南アフリカ第6機甲師団(第4回)
執筆:J.C. von Winterbach、Scott Sutherland、Mike Bersiks、Rex Barret、Barry Cooper
第3回(原文の本文見出し:Part 3)

アペニン山脈からの進撃(The Advance from the Appenines)
1945年最初の数か月の間に、南アフリカ第6機甲師団の編制には重要な変化があった。第24近衛旅団が交代後に師団の指揮下から離れることは分かっており、師団にはもう一つ南アフリカの歩兵旅団を置く必要があった。1945年1月13日、南アフリカ第13自動車化歩兵旅団が編成され、WR/DLR大隊長のJ・ベスター中佐が旅団長(准将)に任命された。旅団の歩兵大隊は当初RDLIおよびNMR/SAAFが担い、両部隊は歩兵としての任務に復帰して歩兵戦術の訓練を開始した。砲兵支援は、師団砲兵の一部と南アフリカ連邦本国からの増援によって編成された南アフリカ砲兵隊(SAA)第15野戦連隊が担当した。南アフリカ工兵隊(SAEC)第5野戦中隊も指揮下に入り、旅団はプラート=ピストイア地域で訓練を開始した。
南アフリカ第6機甲師団は2月末にルッカ地域へ集結した。兵士たちは美しい田園地帯にある新たな宿舎を大いに喜び、休暇と娯楽の機会を楽しんだ。しかし、集中的な訓練計画が始まると、その熱意は薄れていった。前線から下がる際、南アフリカ第6機甲師団は第24近衛旅団の戦友に別れを告げた。これらの優秀な部隊がイギリス第8軍へ去っていくのを、南アフリカ兵たちは心から残念に思った。M・D・アースキン准将は、近衛旅団は南アフリカ第6機甲師団に所属して戦ったことを常に誇りに思うだろう、と語った。

休暇と訓練は6週間を1周期として計画されていたが、期間を短縮せざるを得なかった。1945年3月28日、南アフリカ第6機甲師団は、レノ川とセッタ川の間にある以前の担当地区で、アメリカ第1機甲師団との交代を行うための詳細な命令を出した。イタリアのドイツ軍を壊滅させる大攻勢が始まろうとしていたのである。A・ケッセルリンク元帥の後任であるH・G・O・R・フォン・フィーティングホフ上級大将は、迫り来る嵐とそれに抗し得る可能性について幻想を抱いていなかった。彼はポー川の線まで後退することを望んでいた。しかしドイツ軍最高司令部は同意しないばかりか、連合軍の航空・砲兵攻撃計画を事実上挫折させられたはずの、第8軍正面における限定的な後退すら許さなかった。ヒトラーはアペニン山脈の防衛線に固執することで、イタリアのドイツ軍を金床に縛りつけたのである。
1月と2月には、押し寄せるソ連軍の勢いを食い止めるため、ドイツ軍4個師団がイタリアから引き抜かれた。その中には南アフリカ軍のかつての対戦相手であった第16SS装甲擲弾兵師団「ライヒスフューラーSS」(16. SS-Panzergrenadierdivision “Reichsführer-SS”)と第356歩兵師団も含まれていた。連合軍航空部隊が北イタリアの交通網に壊滅的な損害を与え、1個師団がアルプスの峠を通過するだけで何週間もかかる状況でなければ、さらに多くの師団が要求されていただろう。

他戦線の部隊と比べると、イタリアのドイツ軍は依然として強力な戦闘組織だった。1945年4月10日の時点で、フォン・フィーティングホフ上級大将は各種のドイツ軍21個師団を指揮し、強力な砲兵部隊の支援を受けていた。連合軍がすでにドイツ本土へ殺到していたにもかかわらず、士気はなお高かった。
最大の弱点は航空支援がほとんど存在しないことだった。フォン・フィーティングホフ上級大将が保有する戦車は260両にすぎず、ガソリン不足のため輸送を家畜に過度に頼らざるを得なかった。連合軍はイタリア戦線のほぼ全域で攻撃する予定だった。まずアドリア海沿岸とティレニア海沿岸で予備的な攻撃を加え、その1週間後にイギリス第8軍がコマッキオ湖(原文 Commachio)とアペニン山脈の間に広がる湿地帯で全面攻勢を行う。さらに3日後、アメリカ第5軍が第2軍団と第4軍団を投入し、ボローニャとその北西の平野を目指す攻勢を開始する予定だった。南アフリカ第6機甲師団には、アメリカ第5軍の計画において重要な役割が与えられた。
1945年3月31日から4月1日にかけての夜、南アフリカ第12自動車化歩兵旅団は前線への復帰行動を開始し、4月4日にはアメリカ第1機甲師団の戦闘団A(Combat Command A)から旅団担当地区の指揮を引き継いだ。第11機甲旅団は4月5日に戦闘団Bから担当地区を引き継いだ。師団の担当正面はレノ川とセッタ川の間にあり、右翼を南アフリカ第12自動車化歩兵旅団、左翼を第11機甲旅団が保持した。旅団間の境界はトッリチェッラ川だった。第11機甲旅団の指揮下には第4/13フロンティア・フォース・ライフルズと、アメリカ軍の第19偵察中隊および第135連隊戦闘団第1大隊という2部隊が置かれた。アメリカ軍部隊は歩兵として行動した。南アフリカ第13自動車化歩兵旅団は、後に第12旅団の右翼へ進出する予定で、その段階で両旅団の間で一部の再編成を行うことになっていた。
3月初め、ドイツ軍は戦線をソーレ=カプラーラ山塊の稜線まで後退させており、南アフリカ軍の前方防御線は敵に約1,000ヤード近づいていた。東距77のグリッド線(77 Eastings Grid)がドイツ軍の2個師団の境界となっていた。西側の地区はドイツ第94歩兵師団が守っており、散発的な砲撃や嫌がらせ射撃を除けば、ほとんど活動はなかった。W・H・E・プール少将は3月末に作戦の概要を作成していた。最初の攻撃では南アフリカ第12自動車化歩兵旅団がソーレ山・カプラーラ山を攻略し、その後アベッレ山まで進出する計画だった。

ソーレ=カプラーラ=アベッレ地域を占領した後、第12自動車化歩兵旅団はソーレ山から北東に伸びる尾根に沿って前進し、サンタ・バルバラ山を占領することになっていた。第13自動車化歩兵旅団が右翼を援護し、続いてジョヴーレ山とバコ山を占領して、セッタ川とレノ川の間に残るドイツ軍を撃滅する。これらの段階が完了すると、第12旅団はレノ川の渡河に備えることになっていた。すべての攻撃には師団砲兵が支援につき、これまでにない規模の航空支援も約束されていた。
南アフリカ第6機甲師団は、アメリカ第2軍団の左翼を担当する編隊だった。アメリカ第5軍の正面では、第4軍団がレノ川西側の山地を攻撃して戦端を開き、その後第2軍団が突撃を開始する計画である。第6機甲師団の攻撃に関する詳細な計画は1945年4月5日に始まった。師団長は幕僚や旅団長を集めて協議し、旅団長たちもその部下や支援兵科の指揮官と十分に話し合った。第12自動車化歩兵旅団は詳細な偵察巡察を実施し、敵の前哨陣地を確認するとともに、適切な前進経路を決定した。敵の妨害は少なかったが、この地域には多数の地雷が敷設されており、死傷者が発生した。

1945年4月7日から8日にかけての夜、第6機甲師団正面の敵陣地に対し、一連の本格的な砲撃の最初のものが実施された。目的は、主攻撃の時刻について敵を欺き、士気を打ち砕き、敵が用意している防御射撃の目標や射撃計画を露見させることだった。しかし後の二つの目的は確実に達成されず、敵は念入りな砲撃にほとんど関心を示さなかった。
その間に大攻勢は他の戦線で始まっていた。1945年4月1日、アドリア海沿岸では鮮やかなコマンド部隊の攻撃により、第162トルクメン師団が混乱に陥った。4月5日には日系アメリカ兵部隊がティレニア海沿岸で攻勢を開始した。攻撃は大成功を収め、ラ・スペツィアの海軍基地が脅かされたため、ドイツ軍はポー川流域から予備兵力を投入した。4月10日には、イタリアでそれまで見られなかったほどの砲撃と空爆が、イギリス第8軍の前進開始を告げた。ドイツ軍は国道9号線沿いに攻撃があると見込む過ちを犯し、第8軍の主力攻撃はコマッキオ湖の南方地域に向けられた。ドイツ軍は激しい空爆と砲撃によって動揺し、大量の火炎放射戦車が投入されたことにも混乱させられた。4月10日、第8軍は深く突破した。ドイツ軍は立ち直って持ち前の熟練と粘り強さで反撃したが、最初の衝撃から回復することも、誤った部隊配置を修正することもできなかった。評判の高かった「ジンギス・カン線(Genghis Khan Line)」へ退いても安全は得られず、4月15日に第8軍はバスティアを占領し、イタリアにいる全ドイツ軍の側面を脅かした。
当初、アメリカ第4軍団が4月12日に第5軍の攻撃を開始する予定だったが、爆撃機の運用に適さない天候のため、攻勢は4月14日まで始まらなかった。その日の夕方までに、南アフリカ軍の左側にいたアメリカ第1機甲師団の先頭部隊がヴェルガートへ進入した。さらに西方ではアメリカ第10山岳師団が目標を占領し、強い決意をもって前進していた。4月15日、アメリカ第2軍団が攻撃を開始し、南アフリカ第12自動車化歩兵旅団がソーレ山とカプラーラ山に向かって投入された。

ソーレ山とカプラーラ山はスタンコ山やサルヴァーロ山ほど高くはなかったが、灌木に覆われた極めて急な斜面が強固な障害となっていた。ソーレ山頂から北東のコッリーナへ延びる尾根は、全体が刃のように細く、部隊を展開させる場所がなかった。アベッレ山はソーレ山やカプラーラ山よりかなり低かったものの、防御に奥行きを与えており、そこに配置された敵は両山の北斜面を下る部隊に射撃を浴びせられた。
南アフリカ第6機甲師団は攻撃に向けて部隊を再編した。1945年4月9日、第13自動車化歩兵旅団が前進し、司令部をラ・トッレに置いた。4月10日、RNCが第13旅団の指揮下に入り、同旅団は第12旅団の右翼を守るため、ソーレ山からセッタ川までの地区を引き継いだ。これにより第13旅団はNMR/SAAFとRNCに、指揮下のSSBの1個中隊を加えた構成となった。4月8日、RDLIが第12旅団正面中央でFC/CTHの2個中隊を交代させ、FC/CTH大隊をソーレ山への攻撃に使えるようにした。同日、第4/13フロンティア・フォース・ライフルズは第12旅団の指揮下に入り、旅団左翼地区でWR/DLRと交代した。このためWR/DLRをカプラーラ山攻撃に投入できるようになった。南アフリカ工兵隊第12野戦中隊は、PAGの1個中隊も指揮下に持つ第12旅団を支援するよう命じられた。
南アフリカ軍の部隊略号(South African Units)
- RDLI – ロイヤル・ダーバン軽歩兵連隊(Royal Durban Light Infantry)
- NMR – ナタール騎馬ライフル連隊(Natal Mounted Rifles)
- DROR – エディンバラ公直属ライフル連隊(Duke of Edinburgh’s Own Rifles)
- RLI – ランド軽歩兵連隊(Rand Light Infantry)
- RB/RPS – ボータ連隊/プレジデント・ステイン連隊(Regiment Botha/Regiment President Steyn)
- PR – プレトリア連隊(Pretoria Regiment)
- PAG – プリンス・アルフレッド近衛連隊(Prince Alfred’s Guard)
- SSB – 特別任務大隊(Special Service Battalion)
- ILH/KimR – インペリアル軽騎兵連隊/キンバリー連隊(Imperial Light Horse/Kimberley Regiment)
- RNC – ロイヤル・ナタール・カービニアーズ連隊(Royal Natal Carbineers)
- FC/CTH – ファースト・シティ/ケープタウン・ハイランダーズ連隊(First City/Cape Town Highlanders Regiment)
- WR/DLR – ウィットウォータースランド/デ・ラ・レイ連隊(Witwatersrand/De La Rey Regiment)
1945年4月11日、W・H・E・プール少将は第12自動車化歩兵旅団の将兵に対し、小隊軍曹に至るまで状況を説明した。4月13日、ボローニャ南東のイギリス第8軍正面で敵が接触を断ったため、全般的な撤退命令が出されたのではないかと疑われた。巡察隊が派遣され、RDLIの一隊はソーレ山頂から200ヤード以内まで近づいた。しかし激しい射撃によって、敵が陣地を保持していることが明らかになった。脱走兵もこれを裏づけ、予期される攻撃に備えて弾薬が追加支給され、最後の一兵まで戦うよう命じられたと証言した。
4月14日夜、第4/13フロンティア・フォース・ライフルズは2個小隊で敵の拠点カーサ・ポッジョーロを攻撃し、成功した。この拠点はカプラーラ山攻撃部隊の左翼を脅かしかねなかった。1945年4月15日は快晴で、青空は空爆に好都合と思われた。13時、重爆撃機が飛来し始めた。1時間半にわたって、横一列またはV字編隊の爆撃機が絶え間なく空を通過したが、爆弾は師団正面よりかなり北方に投下された。16時15分、最初の戦闘爆撃機が現れ、カプラーラ山の斜面に特殊な液体燃料型爆弾を投下した。いずれも激しい閃光を発し、黒煙がもうもうと立ち上った。その後15分ごとに6機がソーレ山とカプラーラ山へ急降下し、極めて低空から焼夷弾と高性能爆薬を混ぜて投下した。ロケット弾や機関砲弾を使った機体もあった。敵からの反応は、少量の機関銃・機関砲射撃を除けばほとんどなかった。
実際、爆撃は非常に壮観で、味方の士気を大いに高めたが、達成した成果はごくわずかだった。少数のドイツ兵が火傷を負ったものの、敵は洞窟や深い掩蔽壕に十分に身を隠しており、攻撃はほとんど効果を上げなかった。戦闘爆撃機の1機はFC/CTHの物資集積所を機銃掃射し、迫撃砲弾薬を爆発寸前の状態にした。死傷者が出て、イタリア人運搬人の間で恐慌が起きた。22時30分、アメリカ第2軍団砲兵と師団砲兵は、選抜された戦車部隊の援護射撃も受け、南アフリカ軍がこの戦役で経験した中で最も激しい砲撃を開始した。砲火の密度は極めて高く、エル・アラメインやカッシーノよりも印象的に感じられるほどだった。砲火の援護の下、WR/DLRとFC/CTHが攻撃に移った。
FC/CTHの集結地域からソーレ山頂までは約1マイルあり、進撃軸は山頂へ続く尾根に沿っていた。FC/CTHのC中隊とD中隊が先頭に立ち、23時に出発線を越えた。敵は防御射撃として迫撃砲を撃ってきたが、損害は軽く、23時50分にC中隊とD中隊はソーレ山を登り始めた。山頂に近づくとC中隊は地雷によって足止めされた。しかし除雷を待たず、5人の一隊が地雷原を駆け抜けて山頂に到達した。隊員1人が戦死したものの、彼らは深い掩蔽壕から出てきた敵を捉え、銃剣と手榴弾で有効な打撃を与えた。

地雷原には通路が切り開かれ、FC/CTHのC中隊とD中隊はいずれも山頂に小隊を送り込んだ。4時30分までにソーレ山は確実に確保された。ドイツ軍の迫撃砲射撃は激しさを増していたが、砲兵と4.2インチ迫撃砲が対迫撃砲射撃を行い、小規模な反撃の試みを粉砕した。
そのころ、カプラーラ山をめぐっては凄惨な戦闘が繰り広げられていた。カプラーラ山の斜面はあまりに急で、適切な接近路はカプラーラ村の方向からしかなかった。このためWR/DLRはテルミネ山地域の集結地点から長距離を行軍し、カプラーラ山南斜面を回り込み、カプラーラ村を占領した後、頁岩質の急斜面を登って突撃しなければならなかった。20時30分、WR/DLRのA中隊とB中隊は集結地から、サン・マルティーノ南方の谷にある攻撃準備地点へ向かった。両中隊がそこへ到着する前から問題が起き、出発線を示すランプを設置していた先遣隊が、左翼にいる第4/13フロンティア・フォース・ライフルズから射撃を受けた。
砲兵の弾幕射撃が始まるとすぐに、ドイツ軍の砲兵と迫撃砲も活発に防御射撃を開始し、谷筋に沿って捜索射撃を行った。WR/DLRのB中隊は攻撃準備地点から前進する途中、集中した砲迫撃砲射撃を浴びて多くの死傷者を出した。A中隊とB中隊はカプラーラ村へ前進を続けたが、B中隊の損害が大きすぎたため、真夜中にC中隊が任務を引き継ぐよう命じられた。一晩中、出発線には猛烈な砲迫撃砲射撃が加えられ、イタリア人担架兵の士気は崩れた。そこでケープ軍団(Cape Corps)の当番兵を急きょ担架搬送班に充てた。B中隊は間もなく17人にまで減り、支援のため前進したD中隊も、出発線と最初の進出地点の間で32人の死傷者を出した。

2時、WR/DLRのA中隊とC中隊はカプラーラ村を迂回し、切り立った山の斜面を登る攻撃を開始した。この段階になると通信はほぼ不可能になった。A中隊とC中隊は一時互いの連絡を失ったが、強い抵抗に遭いながらも前進を続けた。有刺鉄線の障害物に行く手を阻まれ、シュウ地雷(Shu mines)によって死傷者が出たため、A中隊はC中隊の方へ移動せざるを得なかった。山の中腹で、両中隊はトーチカからの機関銃射撃によって釘づけにされた。
何度か試みても前進できず、夜明けが迫って、このままでは両中隊が危険な状況に置かれるため、中隊長たちは戦力を合わせて障害物を強襲することにした。兵士たちはほとんど垂直に近い急斜面を銃剣突撃で駆け上がり、トーチカ、個人用掩体、壕にこもっていた敵を追い出した。
山頂周辺には至る所に地雷があり、ソーレ山方面から小火器射撃が飛んできた。8時までに射撃は収まり、WR/DLRのA中隊とC中隊は目標地点で塹壕を掘った。午前中、敵は進撃路への迫撃砲射撃を続けた。PAGの戦車3両はソーレ山とカプラーラ山の間の鞍部に到達できたが、サン・マルティーノを通る小道を後続した別の戦車小隊は地雷に遭い、2両が行動不能となった。カプラーラ山攻撃でWR/DLRは168人の死傷者を出し、そのうち24人が戦死した。
敵はなお山の北西斜面を争っていたが、大隊はカステッリーノ山とカプラーラ=アベッレ谷を監視できる陣地を確保していた。これによりFC/CTHはアベッレ山へ進出できるようになった。1945年4月16日の午前は、断続的な敵の迫撃砲射撃があるだけで静かに過ぎた。17時30分、FC/CTHのA中隊とB中隊は砲兵と迫撃砲の支援の下、アベッレ山への攻撃を開始した。ソーレ山北東の606地点から危険な十字砲火が発生したため、砲兵と大隊の3インチ迫撃砲が同地点を射撃した。アベッレ山はわずかな抵抗の後に占領されたが、606地点からの機関銃射撃は引き続き厄介だった。この作戦中、RDLIのB中隊は側面支援のためソーレ山東側の稜線へ進出した。日没近くになると、カンポデッロ方面からWR/DLRに対する敵の反撃があった。砲兵は防御射撃を行い、作戦のために集中運用されていた4.2インチ迫撃砲も大型砲弾による射撃を加えた。続いて歩兵が斜面を駆け下りて突撃し、敵を敗走させた。
こうして1945年4月16日の夕方までに、ソーレ山、アベッレ山、カプラーラ山という三つの主要地形の占領が成功裏に完了した。セッタ川東側で攻撃したアメリカ第2軍団の諸師団は、それほど幸運ではなかった。4月16日の激戦後も、ドイツ軍はモンテルミーチとアドーネ山を保持していた。一方、レノ川の西では、ヴェルガートもペーロ山もアメリカ軍の手に落ちていた。南アフリカ軍の攻撃が成功したのは、突撃した歩兵の強い決意と、大隊・中隊・小隊指揮官の的確な戦術判断が結びついたためだった。

砲兵支援は強力かつ正確だったが、ドイツ軍の掩蔽壕はあまりに深く頑丈に造られていたため、敵は砲撃による被害をほとんど受けなかった。
1945年4月16日から17日にかけての夜、RDLIはソーレ山から北東に伸びる尾根に沿って進出する任務を開始した。A中隊とC中隊は出発線へ向かう途中、ソーレ山へ進んでいた敵の反撃部隊と交戦し、これを押し戻した。出発線を確保するために戦わなければならず混乱が生じ、激しい機関銃射撃にも遭った。606地点と551地点は占領したが、コッリーナには到達できなかった。夜明けごろ、606地点への反撃を撃退し、FC/CTHもソーレ山北西斜面への襲撃を退けた。この夜、RDLIは12人の負傷者を出した一方で、捕虜30人を得た。後に得られた情報から、RDLIの前進がソーレ山を奪回しようとする敵の大規模な企てを混乱させていたことが分かった。
1945年4月17日午後、WR/DLRの巡察隊はカステッリーノ山へ渡り、敵がいないと報告した。しかしRDLIはコッリーナへの到達を試みたものの失敗した。ドイツ軍はその陣地を強固に保持し、迫撃砲射撃も激しかった。尾根は刃物の背のように極端に細く、部隊を展開できる場所がまったくなかった。また、尾根のほぼ頂上に並ぶ敵陣地は砲撃と迫撃砲射撃の影響を受けにくく、着弾が少しでも手前や向こう側にずれると効果がなかった。4月17日から18日にかけての夜20時40分、RDLIのC中隊はコッリーナに対する周到に準備された攻撃を開始した。しかし集中した砲迫撃砲支援にもかかわらず、攻撃は撃退された。ドイツ軍の射撃は激しく、近距離からロケット弾を何発も撃ち込んだ。そのうち1発は中隊長を負傷させ、1個小隊を丸ごと戦闘不能にした。第6機甲師団はサンタ・バルバラ山へ続く尾根で長く血なまぐさい戦いを強いられそうに見えたが、4月18日の朝、奇跡的な変化が訪れた。

1945年4月17日、アメリカ第2軍団は、敵の抵抗がいつ崩壊してもおかしくないので迅速な追撃に備えるよう警告していた。しかしRDLIが受けた激しい抵抗は、その楽観的な見方が誤りであるかのように思わせた。そのため、PRとILH/KimRをレノ川沿いに前進させ、コッリーナからサンタ・バルバラ山へ続く尾根を背後から攻撃する案が検討された。ところが4月18日8時、第13自動車化歩兵旅団正面で投降した2人の脱走兵から、ドイツ第157山岳師団(157. Gebirgsdivision)が夜間に撤退命令を受けていたことが伝えられた。アメリカ第88歩兵師団からも、モンテルミーチとアドーネ山が放棄されたとの報告が届いた。
RDLIは直ちに巡察隊を前進させ、まずヌヴォレータ、続いてサンタ・バルバラ山に敵がいないことが確認された。捕虜も何人か収容され、ジンギス・カン線まで撤退する命令が出ていることが裏づけられた。しかし、ドイツ軍は最終的にポー川まで後退せざるを得ないことがほぼ確実だった。アメリカ第2軍団の正面では、ドイツ軍には急速な撤退以外の選択肢がなかった。1945年4月17日、イギリス第8軍はアルジェンタを占領し、フェラーラへの突破を脅かしていた。アメリカ第4軍団の正面では、第10山岳師団が目覚ましい進撃を見せ、パストーレ山へ到達して、いわゆるジンギス・カン線の側面に回り込んでいた。ドイツ軍は敗走しつつあり、アルプスまでの追撃が始まった。



